たかはしたまごは、先々代が大正14年に、東京世田谷区の三軒茶屋で養鶏業を始めたのがルーツです。今日まで、たまごひとすじ80数年、近代養鶏の大量生産方式には目を向けず、昔ながらの養鶏法を貫いています。
たかはしたまごは頑固一徹なたまご屋です。

年 代 たかはしたまごのできごと
大正 3年 ・先々代、山形県より上京、東京渋谷区道玄坂の養鶏場に奉公。
(今は大都会の道玄坂も当時は、‘道玄’という山賊がいたそうです。)
大正14年 ・東京世田谷区三軒茶屋にて農業兼鶏数十羽を飼い始める。
昭和 7年 ・東京世田谷区砧に移転。鶏数百羽。
昭和13年 ・諸般の事情により一時廃業。
昭和21年 ・現代表生まれる。
昭和26年 ・先代、専業として‘あら養鶏’(※注)を始める。

(※注)魚店から毎日出る残渣(魚の頭、ハラワタ等)を回収し、煮込んで飼料原料(蛋白源)とする養鶏法。毎日、回収したものを即日加熱処理をしなければならず、夜間作業で大変な時間と労力がかかる。
昭和30年 ・飼料攪拌機を自作し、本格的自家配合に取り組む。三千羽。
・竹を割って作った鳥籠(現在のケージ)による総て自作の鶏舎を使用。
 (現代表も子供の頃竹割りを手伝う。)
・「高橋兄弟養鶏場」として業界に注目される。
 (先代と、その弟の共同経営)
昭和35年 ・先代の弟(現代表の叔父)埼玉県入間市に進出。
昭和40年 ・現在の、埼玉県日高市に農場開設。8千羽。この当時は市販配合飼料を使用。
昭和45年 ・世田谷 農場を撤収。 現代表就業する。
・‘あら養鶏’をやめ魚粉によるに自家配合を再開する。
・エサを安くするための自家配合とおいしいたまごのための自家配合があることに気がつく。後者を選ぶことを決意。
・このころ、たまごの味の違いを認識する。が、たまごの味はどれも同じと主張する養鶏経営者が多いことに驚く。
昭和50年 ・世田谷農場を撤収。現代表、経営に参画。
 この頃より1棟数万羽の大型ウィンドレス鶏舎が出現し、主流となる。大商社が大型直営農場を経営したり、中小養鶏場に資金援助をしながら農場の規模拡大を強力に推し薦め、卵の生産量が急速に増加する。
 しかし、こうした、あまりにも経済合理性のみを重視し、自然とかけ離れた 方向性に疑問を持ち、農場大型化への道へは走らず、小規模でも、『自然で安心、昔のようなおいしいたまご。』
 『コスト吸収出来る適正価格で販売。』
 という基本方針を固め、研究を始める。1万5千羽。
・このころ、食品であるたまごの各種品評会に“おいしさ”という評価項目が無いことに疑問を持ち、誘いがあるも、一切の品評会への出品を辞退する。
昭和55年 ・コンピュータ制御によるさらに超高密度、超大型のウィンドレス鶏舎の開発、普及が進み、たまごの消費量の増加以上に生産量がする。そのため、価格が安値安定 《「たまごは物価の優等生」の言葉生まれる》し、養鶏場の 経営悪化が全国的に顕在化する。
 しかし、なぜか、その後も大資本の援助(?)により更なる養鶏場の大型化が進む。
・市場で‘特殊卵’のはしりともいえる“ヨード卵-光”が発売される。 
昭和60年 ・試行錯誤の結果、上述方針による第一段階がほぼ完成。市販を始める。
 しかし販売初日の売り上げ、惨憺たる5パックのみ。10キロ売れるようになるのはいつのことか、、と天を見上げる。だが、おいしい と言うこで消費者の反応は極めて良好。
 “本物のたまご”という方向性には自信を深める。
・また、“ヨード卵 光”の成功をうけてか、全国規模のブランド卵が台頭し、たまご需要の拡大に寄与したように思う。
・さらに研究をすすめ、たまごのおいしさの本質を探す。
平成 元年 ・売上の割に開発費がかさみ、経営上最も困難を極めた時期。
平成 5年 ・“安全、おいしさの研究、第二段階”が完成。消費者に、更に高い評価を受ける。
・市場では、たまごの安値安定で養鶏場の窮状が続くに従って‘特殊卵’の種類が増加してくるが、品質に関しては疑問を感じるものも多くなった。
・経営コンサルタントの指導を仰ぎ、本格的に販売に取り組む。
平成10年 ・”たかはしたまご”の評価高まり、念頭にあった第一次目標(相場に左右されないで高品質のたまごを販売)に達する。
平成12年 ・インターネットでの販売の取り組みを始める。
平成16年 (有)たかはしたまご設立。

ここまで振り返って、困難な場面に、節目節目に、多くの人たちに支えられてきた。
これらの人々無くしては、今の 「たかはしたまご」 はあり得なかっこと、そのことを思うとき、自分の限界を知ると共に、お世話になった多くの人々に万感の感謝を捧げるものです。

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